ひとつの桜の記憶
桜の頃になると懐かしく思い出す桜のトンネルがあります。短大卒業後、里見公園の隣りにある保育園に勤めはじめた4月、バス停から園に続く桜並木の両端には、ずらりと太い幹が連なり空を覆うよういっぱいのソメイヨシノが咲き誇っていました。
しんとした朝方、冷んやり花の香りひそやかにひろがる桜の並木の下を歩く。花吹雪に包まれ、なんとも温かい気持ちになる。季節は進み若葉から緑さざめく夏、紅葉、落葉、老齢の樹々たちは、はだか樹の姿でさえも威厳に満ち、心許ないあの頃のわたしをどっしりと支えてくれていました。
体調を崩して保育士としては2年しか勤められなかったけれど退職の日、3月の終わりは満開の桜。これからにそっと背中を押されたような、桜並木とのお別れでした。そして10年ほど前、3歳まで住んでいた市川真間を母と歩き、その足で国府台の里見公園へと続く懐かしい桜並木を訪れると、あの重なるほどに垂れこめていた花はまばらに。空が見渡せるほど枝が伐採されていて言葉を失いました。老齢した幹が弱り、枝を落として樹木医が治療にあたっているとのこと。
ソメイヨシノは一本の木から始まった同じ遺伝子を持つクローンで、接木の技術は平安時代から続いているといわれるが寿命は50年。江戸時代に植えた桜が一気に枯れてしまうのではないかと心配もまた事実なのですね。
長い長い年月、接木として植えられたたくさん桜はひとつの桜の記憶として私たち日本人には桜とは繋がる何かがあるような気がします。
桜の花は下を向いて咲く。
わたしは上を向く。
顔と顔、近づけて微笑む。毎年、忘れてしまうけど、ずっと心を通わせてきたのだったね。わたしたち。
團十郎山という名の丘の近くに一本、大きな桜の木があります。昨夜の雨でも花散らず今朝、八分咲き。
「今年もお会いできて嬉しいです」