上を見よう…空を見よう。天は空いているではないか。
十三番目の月を美しいとする、欲を張らない外しの美学。少し欠けた月が窓から見える明け方、鴇色の空が美しい。微かな波の音と風を入れようと起き上がろうとして、ぐらりと斜めに世界が傾いた。ゆっくり横になって目を閉じる。荒れた海の船旅しているような、くるくると落下していく私を違う私が見ている漫画のような、疲れからくる回転性のめまい。不安や寂しさまでも連れてきて、やっかいなことこのうえない。
「すぐじゃなくていい」とは言っても几帳面な父はすぐにでも行きたいのだとわかった。整形外科からの紹介状。大学病院の診察いつにしようか…
手足に痺れがあって、昨年だったか…ギックリ腰でのMRIでついでのように「頚椎症性脊髄症」との30年来の病名がわかる。今年に入って寄る年波に勝てずというか…足を引きずる、もたつくのが誰の目にもわかるようになって「大学病院へ紹介状」ということになったらしい。
耳が聞こえづらいのが心配。手術の為の診察と説明は近い人が立ち会うべきと思ってます。けど、会計終えて5時間超えてるなんてクタクタですよ…ホントに大学病院というところは。
本人希望で手術と決まって父は急に元気になっている。85歳…車椅子に、杖になる可能性が高いなら良くなる方向に賭けて手術したいと諦めないのは立派。娘としては正直悩むところ。
手術入院となれば、この頃ますますノンビリな要介護1の母をひとりで生活させるのは無理。術後のリハビリ入院が長引けば…まして最悪、手術がうまくいかなくて車椅子になることもあるかもしれない。そんな後々のことも含めて私に丸投げみたいな空気が漂う。今までの父はそんなふうだったかなと首を傾げるほど。年をとるって、いろいろが億劫になることなのだなぁ。おそらくはそう遠くない先、自分もそうであろうことも。
親しい間柄だからこそ、相手への負担を思いやるべきじゃないかな。そもそも介護には正解なんかなくて、親戚や近い人たちの良かれと思う⁉︎(これが面倒)介入で迷宮入りしてしまう知人たちのゆきかたを見るに、仲の良い家族、優しい人の方が自分の生活を削るような介護に立ちゆかなくなるようで胸が痛む。
「母の食事を作り置きを冷蔵庫に入れて…きっとそれも忘れて腐らせてしまうのかと思うと、帰り道、自転車でボロボロ泣きながらかっ飛ばして帰ったわ」物忘れの介護「あるある話」をつい一緒に泣いてしまう…つい笑ってしまう…やりきれない。報われない。そしてなぜか孤独に陥る…に共感。介護する当人たちのハードルはどんどんあがっていくのが現実。自己満足しながら自分を励ましていかないと、どうかなりそうで恐ろしい親の介護の難しさを思う。
母が2階の非常階段の上からいつものように私に手を振っている。
この頃はこれが辛い。
私は振り返って両手を広げて手を振って、いつもの道、泣きながら駅まで歩く。私の姿が見えなくなればノロノロと家に戻っていく母の後ろ姿を思って。
塞がってしまった今の、上を見よう…空を見よう、天は空いているではないか…どこで聞いたのだったかな。
たとえ、どんな不幸と思える事柄に見舞われたとしても、大きな流れで見れば、些細なことであったり、全体として見ればうまくいっていたり。
「よくないこと」も見方を変えれば「よいこと」に見えてくることがあります。
「万事、うまくいっていない」と思えてならないときこそ、むしろ「万事、うまくいっている」と唱えてみる。看護師 真言宗 僧侶 玉置妙憂