母への手紙 – 沖縄 石垣島 〜 宮古島 2005.05.19
15年前になりますね。お天気に恵まれての南国。わたしも、お母さんも旅となるとじっとしていられなくて、父に回遊魚族‥「動いていないと死んでしまう」と‥朝から晩まで歩きまわって楽しい。2人とも脚が丈夫で逞しいとか笑いあってね。石垣島では、なぜかバナナケーキのお土産に命かけて探したり(自分で焼いた方が美味しいはずなのに)‥そんなのんびりした旅でした。
ちょうど梅雨前の宮古島の海は静か。薄く透きとおったサクラ貝のようにひとつひとつ甘くて壊れてしまいそうな宝物のような思い出です。
お母さんも人並みに歳をとりました。思い出の箱を少しずつ開けて、ハガキ送ります。お部屋のコルクボードに貼ってもらってね。昭和なアナログ感たっぷりの施設なのにLine面会のお知らせがきたのに驚いた。でもコロナウィルスがもう少し落ち着いた頃に賢史君とパパとで会いに行きます。
グループホームに入った母。なかなか馴染めないようす。
そりゃ不安だよね…「夜起きてしまわれるのが悩めるところ」とケアマネージャーさんより連絡あり。そしてきめ細かくみてくださるということは、ハードルも高い。「自分で洋服を着てほしいので柔らかい素材、伸びる素材の服を探してください」と。緊急事態宣言直後の洋品店探し。ネットでは大きさや素材感、肌触り、伸びやすさがわからない。隣の平塚は昔ながらのアーケードのある街。よくある誰のためのかわからない洋服店が潰れないのはシニアのためのものだとわかった瞬間、ニーズ高い。人が切れることがない。高齢者の服は自然素材にこだわらないこと。施設は他人と暮らしていても生活の場だから普段着なのだと、このあたり前のことがわからなかったことに戸惑う。あれこれ選んで施設に送って、燃え尽き症候群。
桜の散る午後、母を施設に入居させた時の小さなひとかけらだって覚えてる。ひとつひとつ身体のどこかに沈めて。
だからだろうか。疲れが抜けなくて頭痛と首の痛みが続いて、毎日鎮痛剤飲まないと動けないけど、熱がない。整形外的寝違えでもなかった。首の喉仏あたりが腫れて、やっと亜急性甲状腺炎という病名がつく。結局入院、薬は3ヶ月くらい続く。処方されて間は免疫力が低下のまま。
世の中は一歩踏み出したところだけど、私は、まだまだ stay home つづく。