2019-07-16
蓮始開(はすはじめてひらく)
幻想だろうか。
細い路地を曲がると小さな燈が点々と続く。そのひとつがゆっくりと近づいてくる…なんと幽玄な美しさだろう。結界の狭間からの狐火かと思えば、手持ち提灯?そこで気づく迎え火…東京の新盆だったと。
迎え盆の頃になると思い出す下町、深川です。
夕暮れどき、小さな橋を渡ると川面がゆらゆらと漂って、深川芸者や置屋があったという花街の細い通り、仄かなお線香の香りに路地を振り返れば、死者への迎え火は揺らめくようでした。
身近に死というものを感じたとき出会った「芥子の実の喩え」。我が子を亡くした母が生き返らせてほしいと仏陀に願う。死を経験したことのない家から「芥子の花の種」をもらってくれば願いを叶えようと言われ、不幸が訪れなかった家を探して、村をまわり、歩きまわっても死者を出したことのない家などなかった。そして不幸なのは自分だけではない、誰もが死別の悲しみを胸に抱えて毎日を暮らしていると「悟る」…
「悟る」ことは、そうたやすいことではない。哀しみはそれぞれ違うから。
人には寿命があると誰もわかってる。でも今の今でさえ私は、愛しい人たちの、私の命の炎が消えてしまうかもしれない、など思いもしません。
死を待つ日々。どんなに悲しい毎日でも季節は変わらず花は咲き、夕焼けは美しく空を染め、のんきに雲は流れていく。
どうにもならない悲嘆の海に漂う時にも、必ず哀しみを慈しむ静謐な時がやってくるように思います。がっかりするくらい人は図太くて、たくましい。
でも、だからこそ、いつどんな時からでも未来を感じることができる、幸せになれるものだとも思います。そうなれると、わたしは私を信じます。
そちらはどうですか…
逢いたかった人達には会えましたか?わたしたちはそれぞれに忙しくしています。あなたをいつも心に感じて。
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