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2022-02-02

百日草

人は旅立ってから百日、百箇日は卒哭忌(そっこくき)とも呼ばれ、遺された人は泣くことから卒業する日だといわれます。いつも座っていた場所がポカンと空いているし、帰り際いつまでも手を振ってくれた姿がない。百日を過ぎてもこの寂しさをどうしよう…忘れる…薄れる…悲しみを手放していく過程はひどく長く感じる。大切な人を亡くす再生の物語「百日告別」という台湾の映画にそんな頃出会いました。台湾に降る温かな雨に包まれるような、ゆっくり心に染み込んでゆくような映画です。

台湾は敬虔な仏教徒が多く、どこの寺院でもお線香の煙の絶えることはありません。突然の事故でそれぞれのパートナーを亡くした主人公たちは信心深い親族と一緒に7日ごとにお寺へ通い祈りますが、その度ごとに何度も何度も「死」を確認させられることになります。決してもとには戻らない日常。立ち直るとか乗り越えるとかを、どこか他人のことのように聞き流して、心の中の壊れたカケラたちを集めながら景色の変わってしまった毎日を過ごす。

主人公は新婚旅行に行くはずだった沖縄へ旅に出ます。傷ついた心に響くのは他人との何気ない触れ合いかもしれません。丁寧で優しい沖縄の言葉、やわらかな風を感じる素敵な場面です。

旅の途中坂道で出会った老婆、おばあに思わず手を差し出しますがおばあは優しく断り、ふたり並んで坂道を登ります。'坂道は辛くて仕方ないけれど、助けはいらない。苦労しても自分の足で、自分の速度でゆっくり少しずつでも登っていけば、いつのまにか登りきって辛さも通り越していることに気がつく'と。沖縄のことばで語るおばあに彼女は手を差し出したりひっこめたりしながら坂道を一緒に登るのですが、そこから彼女の立ち直ろうとする一歩になっていくのです。


ショパンの練習曲25-1「エオリアン・ハープ」が心地よく、「百日告別」この映画の素敵なエピソードになっています。

百日草は「幸福」「絆」という花言葉を持ちながら「不在の」「遠い」「別れた友人を想う」といった少し切ない印象の花言葉も持ちます。物語の中に語られる「花開花謝終時」  “There must be seasons for flowers to blossom and wither. So is the human relationship: The beginning will end one day. But it seems to be no end in human union and separation.”

施設へ母を預ける約束の時間まで1時間。桜吹雪を母と車で眺めていた春の午後、これがふたりで見る最期のお花見になるのだろう。風に流されてくるたくさんの花びらがふんわりとたどり着いた先は眠ってしまった母の髪と肩。はじめての緊急事態宣言が出ようという時。まだコロナウィルスは未知で、施設に入ればしばらく母とは会えなくなってしまう覚悟もあって胸詰まる春。それから母は微笑んで旅立っていったのだ。百箇日が過ぎて桜の季節を迎える頃になっても、心はどんどん小さくなってしまったけれど、一年を過ぎて、桜の蕾が待ち遠しい。桜はいつだって愛おしくてあたたかい。少しずつでも氷は溶けてゆく。
15年ほど前の3月。母とわたしは台湾のお茶畑へむかう山道をバスに揺られていました。たった2人だけのバスはアナウンスもなくゆっくりと進む。温かく湿った霧がバスの空気に忍びこんで肌にまとわりついて心地良く、緩やかな登りのスロープにうとうととする母、山に入り込むほどに小雨は柔らかな霧雨になってふんわりと霞む緑の広がるお茶の畑をぼんやりとわたしは眺めていました。思い出は夢のように優しい。

百箇日

此日爲卒哭祭

至此之後 不能再哭 巳包含進死亡的時間裏

活動的時間 如光在影之中 如喜在哀之中

卒哭忌とも呼ばれ泣くのをやめる日 影の中の光のように 生きる時間は死へ進む時間を内包する 悲しみの中の喜びのように

思い出すひとつひとつは薄くなっていくのではなくて、こぼした涙を透明な小さなシーグラスにして、静かに胸に落しこむ私の「卒哭忌」

明日は立春。
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